2007年11月30日金曜日

インド時間


ジャイプールから10kmほど離れたところにアンベール城という16世紀頃のお城があります。
ここへ行くのに、街中を走っている小さなバスを使いました。庶民の乗り物です。乗り心地が良いとは言えないバスにみんなぎゅうぎゅうで乗っています。
私達が乗り込んだのは最後のほうでしたが、運転手さんの指示で助手席を譲ってもらえました。もちろん立って乗っている現地女性もいます。外国人はある程度の位と同等とみなされるカースト制度の名残なのでしょうか。
申し訳ない気もしましたが、せっかく譲ってもらったので特等席からの景色を楽しみました。特等席といっても一番前の席ということで、シートなどはいたってガチガチです。
やはり乾いた土地が続きます。木々の緑も少ない地域ですが、南国でがんばるブーゲンビリアだけはかろうじて花を咲かせています。すると丘の上にアンベール城が見えてきます。ちょっと荒廃的で遺跡のような雰囲気もあります。
お城ではさっそく野生のサルが4匹現れて、期待以外のところで楽しませてくれます。
お城の中は外から見た雰囲気とは違い、なかなか素敵です。草花をモチーフにした絵が描かれいたり、モザイクの中に小さな鏡が埋め込まれていたりします。可愛いです。そして石で作られた窓は風は通すけれども乾燥地帯の強い日差しを防ぐという賢いつくりになっているようです。
また、他の国の昔々の建築物と同じように、ここでも修復作業が行われています。座り込んで何やら作業をしているようです。その様子を見ていると、このままで修復は終わるのだろうか、と思いつつもその時間の流れのようなものに変に和んでしまいます。
そして、今回の宿は時々牛舎の匂いが漂ってきます。宿の裏に、牛の寝床があるようです。まさにインドの街中で寝ている気分です。



写真下はガイドの説明を聞くインド人ツアー客。このアンベール城には外国人観光客は少なく、こういったインド人団体客を多く見かけました。








2007年11月29日木曜日

インドの目




インドでの初列車です。
駅のホーム。やはりここも人であふれています。2等席待ちの人達がホームの地べたに座り込んでいます。列車がホームに入ってくると、その人の波がどっと動き出します。無理をしてみんなが列車に乗り込みます。車両と車両の間、列車の外のつなぎ目に座っている人達もいます。車両内の吊り棚に乗り込む人もいるという話です。もちろんそのままで何時間も移動という事になります。いったいどんなことになっているのでしょう。
私達はその隣の寝台車両の良いほうのクラスに乗りました。まわりは、ポーターに荷物を運んでもらえるような上流階級の人達やスーツを着込んだビジネスマンになれる人達と思われます。
今日訪れた300km離れたジャイプールという街への移動で、日本円にして1600円です。2等席だと200円ちょっとです。ファーストクラスと2等席では10倍以上の金額の差がひらきます。
それで安い席を求めてみんなが乗り込みます。
やはりカーストの為に、たとえば私達も利用するサイクルリクシャーの運転手にしかなれない人達もいるのだと思います。カースト制度は1950年に憲法で禁止されていますが、大都市の一部以外ではあまり変わらないというのが現状だそうでそうです。
そういった人達からすると、飛行機でやってきてデジカメで写真を撮っている私達はまた違った世界の人なのかもしれません。
また、10,20代の女性を今のところあまり見かけていません。このあたりの国ではまだ女性の地位が低いらしいのです。なので旅行に来ている女性というのはどいういった人なのかが気になるのかもしれません。じーっと見ている人は多いです。でもちょっと興味があるようで、自らカメラのフレームに入ってくる人や駅で働く若い男衆が写真を撮ってと言ってきます。旅行者が気になるのか、カメラが気になるのか、どのように写ったかが気になるのか。
そして一般の人はみんな優しい目をしています。草食動物のようなちょっともの悲しげな優しい目です。
とは言っても油断すると何かが起こりそうなこの国です。気は抜けません。
そして今日もカレーです。
美味しいです。インドではベジタリアン専門のお店を良く見かけます。このベジタリアンカレー、野菜だけとは思えない美味しさです。
それでもやっぱり飽きる日がくるのでしょうか。




写真下はデリー駅の職員さん達。

2007年11月28日水曜日

良い人もいます。


このままだと以外にもインドで太ってしまいそうです。
やはり今日もカレーを食べてしまいました。’食の安全’に対する小さな不安を振り払って地元の人向けのお店に入りました。美味しいので、おなかいっぱいなのについつい食べ過ぎてしまいます。しかも2人で300円ほどです。
それから、サイクルリクシャーはとても気持良い乗り物です。サイクルリクシャーとは自転車のうしろに座席がある大きな三輪車のようなものです。タクシー代わりに地元の人も多く利用しているようです。
これに乗って少し高い視線でゆっくりと街中を進むのはとても快適です。汚れた街中で足の踏み場を探したり、寝ている野良犬を踏まないように気をつけて歩く必要もなく、しつこい客引きが寄ってくることもなく、楽しい乗り物です。
そして運転手には若いお兄さんからお年寄りまでいます。若くからだの大きい人であるほど快適に乗れます。なにせ、目の前で必死に自転車をこいでいるもので。
それからちょっとしたエンターテイメントも有りです。
4歳から10歳くらいの3兄妹が寄ってきて、お兄ちゃんがトントントンと太鼓をたたき始めます。すると2人の妹がねじ巻き式のおもちゃのようにくるくるくると踊り始めます。可愛らしいちょっとした雑技団のようです。もちろん、楽しんだ分の観覧代が彼らの目当てです。
自分から求めたわけではないけれども、なっとくしたモノに対しては気持ちよくお金を渡すという楽しみがあるんだなと、これまでの国よりも強く思います。
ヒンドゥー教では’得を積む’と良い事が自分へ返ってくるという考え方があるそうです。’得’とは’良い事’です。なので、貧しい人へ分け与えるという考えもあるのでしょうが、寄付をもらう方も「あなたも得が積めるから良いでしょう」的なニュアンスが含まれているらしいのです。
こういう事も頭の片隅に入れて旅をすると、もっと穏やかな心で楽しめそうです。
ただ、うまく言いくるめようとする人は多いようです。
今後の列車のチケットを手に入れるのにも一苦労です。ホテルが紹介してくれた、チケット代行人は「不便な所だから列車はない。」などと巧妙な説明で高いツアーを押し付けてきます。駅の窓口へ向かうと「ここは閉まっている。向こうに代理のオフィスがある。」などと2,3人が激しく付きまとってきます。嘘をついているのに、私達が従わないと逆切れ的な態度をとる演技派もいました。
彼らの様々な手口の強烈な勧誘をくぐり抜け、ようやくチケットを手に入れることができました。
今日も順調に濃密です。


写真下は道端のチャイ屋さん。さすがに私達は手が出せません。でもどこもだいだいこんなかんじです。

2007年11月27日火曜日

こんな首都も


朝8時。到着したインド・デリー空港は朝もやがかかっているように見えました。でもそれはとても濃いスモッグと砂埃でした。その視界の悪さはいきなり衝撃的です。
空港からニューデリーまでの道のりも大渋滞で、大気汚染を簡単に想像できます。
そして、大渋滞といっても日本のように車が止まって前に進まないという訳ではなく、クラクションを鳴らしながら少しの隙間を縫って、みんなが前へ前へ進もうとします。なので、3車線のところが4列になっています。時には反対車線まで大幅にはみ出しています。警察もいますが10秒ほどのお説教で終わっているようです。そして半分くらいの車は、助手席のサイドミラーは折りたたんでいるか取れてしまっています。
タクシーの反対車線逆走の恐怖に耐えて、無事に目的地で降りることができました。正規のタクシーでさえ希望通りの目的地まで連れて行ってくれるのは6割などと、と聞いていましたが、まずは良い運転手選びができたようです。
そしてニューデリー駅前には商店が連なるメインの通りがあります。人とバイクとオートリクシャー(三輪タクシー)とサイクルリクシャー(自転車タクシー)と車が行き交います。そんな中に牛が悠々と口をもぐもぐさせてたたずんでいます。ヒンドゥー教では、’牛は神聖なるもの’だそうで、無理に動かしたりはしないそうです。なでなでしている人もいます。
大渋滞とスモッグとクラクションと道端のゴミと野良犬と野良牛と野生の猿(野良?)。一国の首都にいるとは思えないような混沌としたかんじは、ここへ来た甲斐有りと思わせてくれます。そして楽しみにしていたアジアでの食事。インドでまず食べたものは、やはりカレーとラッシーです。初日から期待以上のとても美味しいカレーを食べることが出来ました。
それともうひとつ。旦那の「チャイニーズ?」に負けないくらい、最近は「コリアン?」と言われる事が多くなってきました。とりあえずこの収拾のつかなくなった黒い髪をまとめれば日本人に戻れるかなと思いヘアアクセサリー屋さんへ向かいました。この効果はあるのでしょうか。
これまでに会ったインド旅行経験者に感想を聞くと、わりと好き嫌いがわかれるようですが、今のところ聞いていたほどの付きまとわれるうっとおしさはありません。
とはいってもまだまだこれからなのかもしれません。なにせ首都なもので。スマートなのでしょう。

2007年11月26日月曜日

ついにアジア

気がつけばインドという国に興味がありました。いつか行ってみたいなと思っていました。
いろいろな影響があるようですが遠藤周作の「深い河」とゲッツ板谷の「インド怪人紀行」という本は行ってみたい度合いを増幅させました。
この国が嫌いという意見もあるようです。でも、嫌いになってもいいから一度行ってみたい国です。
今日はトルコを出てインドへ向かいます。
ドイツ・ミュンヘン経由です。
ミュンヘンの空港で、最後に先進国のきれいなトイレとドイツの美味しいビールに触れてアジア入りします。

2007年11月25日日曜日

異文化圏で


モロッコはもちろんボスニアでも街を歩けばモスクが目に入ってきます。この景色には慣れてきたとはいえ、やはりモスクのある風景はとてもエキゾチックです。イスラム教の文化のある地域は、建物であったり女性がスカーフで頭を覆っていたりアザーンが鳴り響いてきたりとまさに異文化圏だと感じます。しかも今日はライトアップされたブルーモスクの後ろにほぼ満月の月が黄色く浮き出ている、素敵な夜です。
そしてこの異文化圏で感心することは、トルコ人男性がとても日本語が上手だという事です。モロッコの男性も日本語で声を掛けてきますが、単語での呼びかけの場合が多いです。しかし、トルコの人はとても上手に会話ができます。そういう人達は自分で勉強をし、たいてい日本で働いた経験があるようです。また日本人女性とつきあったりもしているようです。そしてこんな事を言っている人もいました。「日本へ働きに行くと、英語を話す機会がないので英語が話せなくなってきます。やっぱり話さないとだめです。」と。みんな頑張っているようです。
そして、イスタンブールはボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側にわかれています。私達のいるヨーロッパ側は観光客が集まる地域です。アジア側は住宅地です。物価も違ってきます。ヨーロッパ側の物価は日本と同じくらいか時にはそれ以上です。食べ物の値段はアジア側では半分近くまで下がります。ちなみに、店先にはモダンな柄のカーペットが並んでいます。ヨーロッパ側ではトルコ絨毯屋がいたる所で見られるのに、です。完全に観光客向けの街です。そして、アジア側は生活の場なので商店街もあります。今まで見た中で一番新鮮そうな野菜や魚などがたくさん並べられています。
今回は世界三大料理ならではの食事にはありつけませんでした。しかし、こういう気合の入った食材から想像するとおそらく私達の知らない世界で素晴らしい晩餐会が催されているのかもしれません。
写真は下はトルコで’アイラン’と呼ばれているヨーグルトドリンクです。塩味です。「え?」というかんじですが、ついつい飲んでしまいます。こちらの料理と一緒に飲むとなぜか合います。
ちなみにブルガリアでは、150gほどのヨーグルトドリンクを振ってからカップのまま飲んでいる人を多く見ました。

2007年11月24日土曜日

街中で思うこと


イスタンブールの街中を歩いていると、’今どこの国?’と思うことが多々あります。
これも東と西の交流点なのだからでしょうか。お洒落なカフェやレストランが並ぶ地区は、ニューヨークの外国人地区のようです。でもイスラム教国なのでいたるところに立派なモスクもあります。アザーンという、イスラム教の祈りの時間を伝える大音量の放送は、これまでで一番街中で鳴り響いています。
モスクの中でもシルエットが美しい、ブルーモスクへ入りました。サラエボでもモスクへ入る機会はありましたが、どう見てもイスラム教徒ではない私達が足を踏み入れてはいけないような空気がありました。しかし、このブルーモスクは完全に観光地化されています。私達も日本人ツアー客にまぎれて入りました。ざわざわとした空気とフラッシュがたかれる光景は、なんだか残念な気分でした。
そして、今日は宿が変わり暖かいシャワーも出ます。神経をすり減らす必要もありません。
しかし今思えば、昨日の宿はとにかく安くなかなか面白い人もいて、結構良い宿でした。

2007年11月23日金曜日

名物日本人宿


イスタンブールでは、現地の人にも有名な日本人宿に泊まる事にしました。
日本人宿とは主に日本人が経営している宿で、旅の情報を求めて日本人旅行者が集まってきます。各国のガイドブックが並び、情報ノートという、ガイドブックには載っていないような細かい情報が旅人によって書き綴られたノートもあります。そしてそこには’沈没’した人達もいると聞きます。彼らから現地人並の情報を聞き出せればラッキーなのです。’沈没’とは、その地域が大好きであったり、ドラッグに手を出して離れなれなくなったり、日本よりも居心地が良かったり、と様々な理由で、旅行ではなくそこに長期滞在をしてしまうことを言うようです。「日本の英語教育が上手くいっていれば、ニート達は物価の安い途上国で生活するだろう」という、日本人が英語を話せない例え話にも出てくるほどあまり良いイメージはないようです。
そして私はこの宿へ行くのがとても嫌でした。情報を持っているとは言え、このつわもの達とどう接していいのやら...。今後の為に頑張って足を踏み入れました。
日本人に囲まれ、穏やかな空気をちょっとは期待していたものの。かなり気を遣って神経をすり減らしてしまいました。
ブルガリアで会った日本人の話通り、神経質な名物管理人のおかげです。何をするにも気を遣い、おまけに断水です。
しかし、ガイドブックの品揃えは立派でした。アジアからヨーロッパへ向かう人。ヨーロッパからアジアへ向かう人。その通り道となるイスタンブールで、多くの旅人達が持っているガイドブックを残していきます。大げさな言い方ですが、東と西の架け橋であるイスタンブールが繁栄した縮図のようです。
そしてたくさんのガイドブックのコピーをとり、これがいつか役に立つ日が来る。と重い足取りで宿へ帰りました。
写真下はグランドバザールのファブリック屋のお兄さん。最後に「幸運のしるし」と言って小さな飾りを胸につけてくれました。しかし、’この人は買い物します!’という仲間内での’しるし’ではないかと思い、申し訳ないですがすぐにはずしてしまいました。やはりここでも日本人は声が掛けやすいようなので。とにかく疑り深く考えを巡らせている自分がおかしく悲しいです。

2007年11月22日木曜日

トルコバス


トルコのバス会社は全体的にサービスが良いそうです。
ブルガリアからトルコまでのバスも充実したサービスでした。
サービスが良いのはありがたいですが、夜行バスだというのに、私達をなかなか寝かせてくれません。
まず座席に座ると乗務員さんが、昔懐かしいようなレモンの香の香水を私達の手にふりかけてまわります。それからドリンクの無料サービスやちょっとしたお菓子も配られます。
そして深夜1時頃に起こされて出国入国手続きです。
これまでの東欧諸国でのバス国境越えは車内でパスポートを見せるだけでした。しかし今回は、雪の残る寒い夜に一旦バスから降りて荷物のチェックまでありました。パスポートは3度も見せなければならず、欧米人ツーリストは期待通り’オー・マイ・ガッ!’なリアクションをとってくれました。
それから、さぁ寝ようとしたところで休憩が入ります。これはさすがに運転手さんも休憩が必要なのだろうと納得できます。そして休憩所で食べたスープと特にエキメキ(パン)が非常に美味しくこれからの街のイメージを良いものにしてくれました。
そのあとはまた車内でドリンクサービスがあり、落ち着いて眠りについた頃にイスタンブールへついてしまいました。どこまでもリズムを狂わせてくれます。
東欧で偶然にも2回会った50代の夫婦は「いつも得意の夜行で移動しているよ」と言っていましたが、改めてそのたくましさを感じました。

2007年11月21日水曜日

ベリコ・タルノボ


ブルガリア・ソフィアの宿で会った人お勧めのベリコ・タルノボという街へ来ました。
ブルガリアの首都がソフィアになるまではこの街が首都だったという歴史の長い街だそうです。
元首都というだけあってそんなに田舎ではありません。しかしあまり手をつけていない昔のままの街並みと自然が残っています。勝手にイメージしていたヨーロッパの田舎の風景です。
今回の宿のオーナーもこの街が好きで、19世紀の古い建物をリノベーションしてホステルを経営しているようでした。地図を使ってしてくれた街の案内にも街を愛する心がにじみ出ています。
この街に限らず東欧では薪が使われているようです。家の外には薪が積み上げられ、各家庭の煙突からは煙が出ています。薪割りをする人も見かけました。
その煙がまるで温泉街の湯煙のようで、ちょと日本的なかんじもします。
あたたかい気持ちのまま、あたたかいオーナー親子に見送られながら、またまたバスに乗ることになります。今度は西の世界と東の世界の通り道、トルコです。

2007年11月20日火曜日

世界の基準


世界遺産。 最近はその言葉を頼りにしなくなりました。
世界遺産の街。などへ訪れてみるもののその重要さを理解しずらい場合も多くありました。世界遺産の基準とは?などと考えたくらいです。きっと、長い歴史を含め、難しい基準があるのかもしれませんが。
ただ、短期的に訪れる私達にとって、難しい歴史よりも視覚的な驚きが圧倒的に勝ります。
ブルガリア・ソフィアから訪れたリラの僧院は想像以上でした。
セルビア、ベオグラード、と寒い地域続き。しかも戦争の痕を目の当たりにした私達にとっては、とてもグレーな気分の地域が続きました。
そこで、新たな光を差し込んでくれたのは想像もつかなかった’リラの僧院’です。 最高に良かったです。
詳しいことは解りませんが、ブルガリア正教の本山だそうです。
教会の内部は写真撮影禁止です。残念です。しかし写真撮影などとんでもない、というような厳かな空気が漂っています。
えらそうな言い方ですが、この’リラの僧院’は非の打ち所がありません。これまでに見た建築物は、大きければ大きいほどその大きさに圧倒されますが、間延びして隙があるようにもかんじられます。’リラの僧院’はわりとコンパクトで、装飾すべてに神経がいきわたっているようです。聖職者が座るであろう椅子、壁、柱、すべてにおいてぎっしりりと装飾がなされています。こんなにも緻密で立体的な暖かみのある装飾を見たことはありません。 一面に描かれているフレスコ画もちょっとくすんだカラフルな色使いで暖か味があります。そして、日本のお寺のような匂いがかすかに漂っています。
世界遺産に対して期待をしていなかった私にとって、久しぶりに感動的な建築物でした。ブルガリアまで来た甲斐があると思いました。

写真下は、リラの僧院ツアーに迎えに来てくれたバス(?)。ツアーバス。せめてワゴンかと思っていたのに...。こじんまりと、気の良いエストニア人と3人でのドライブのようなツアーとなりました。




2007年11月19日月曜日

現地の言葉で


「こんにちは」「ありがとう」。次の目的地の簡単な言葉を覚えないといけません。現地の言葉での挨拶は、良い反応が返ってきます。
イタリア・フランスなどではそれほどではありませんが。東欧やモロッコなどからすると、東の果ての小さな国の日本人がまさか現地の言葉を。という反応が返ってきます。東欧は特に一般の人でも英語で会話ができる人が多いようです。なので、英語もろくに話せないのに現地の言葉で。と、面白がっているだけなのかもしれませんが。
やはり英語を上手に話せるというのが、ある程度どの国へ行っても旅をより楽しいものにしてくれるようです。話せない、伝えられない事はとても残念です。ただ、英会話力が劇的に上達することはないので、まずは簡単な現地の言葉で。あいさつと数字の数え方でがんばります。
写真下は、今日の宿の公共スペースです。外は寒く宿は快適なので、ここで過ごす人が多いようです。

2007年11月18日日曜日

日本へ帰ってからの楽しみ


エミール・クストリッツァという好きな映画監督がいます。 旧ユーゴスラビアの人で、作る映画の背景も内戦状態だったりします。「アンダーグラウンド」「ライフ・イズ・ミラクル」などです。
シリアスな映画ではなく、内戦状態をもこっけいに描いてしまう、ちょっと切なくあたたかい映画です。
その映画で流れる音楽は、バルカン半島の民族音楽だということです。西洋でも東洋でもないその音楽はとてもエキゾチックだと思っていました。しかし映画を観た時は。まさかこういう音楽が日常的なポピュラーミュージックとして流れているとは思いませんでした。 日本で言えば、民謡や演歌などが進化した音楽。というふうになるんでしょうか。
実際に東欧で耳に入る音楽の多くがとてもエキゾチックです。民族音楽をベースにつくられているような音楽をよく耳にします。都心部にあるお洒落な若者が集うカフェでも、流れる音楽はエキゾチックです。その違和感が異国へいるんだなと感じさせてくれます。
それと、このあたりの地域には美人が多いと聞きました。拓殖大学教授だったかと思います。名前は思い出せません。 ’民族の入り乱れる地域には美女が多い’とコメントをしていました。バルカン半島は、紛争の原因ともなる複数の民族の地域です。確かに魅惑的な美人がロングブーツを履いてさっそうと雪の中を歩いています。
こういった東欧へ来てからの気付きを踏まえて、早くもう一度映画を観たいです。




2007年11月17日土曜日

ベオグラード


朝6時。心残りのままサラエボを発ちます。
サラエボに対して知識がなかったからなのか、雪景色が良かったのか。想像以上に興味深い街でした。サラエボの街はすり鉢状になっているので、どの方向を向いても斜面に建つ家々の景色が見えます。雪景色、夜景ともにとても風情があります。

それと、やはり紛争のあとは凄まじかったです。
バスで出発して1時間。氷点下の雪山を登り過ぎた為か、バスのエンジンが止まってしまいます。1時間ほど待たされて代わりのバスがやってきました。
結局8時間ほどして、セルビアのベオグラードへ着きました。
宿までの道のりに、NATO軍の砲弾で壊れたビルがありました。
そして、今日の宿は。最高に狭いです。3畳くらいのスペースに無理矢理2段ベッドを置いています。
そのすぐ隣では、宿のオーナーらしき人と宿泊客が「硫黄島からの手紙」を観ています。私は観た事がありませんが、日本人はどのように描かれているのか気になります。
私達はこのあたりの地域で紛争あとを見ています。隣の部屋では「硫黄島からの手紙」を観ている人がいます。とても複雑な気分です。

2007年11月16日金曜日

戦争のあと


サラエボの建物は新しいもの以外はほとんど銃弾の痕があります。旧ユーゴスラビアの紛争で市街戦になった地域の為です。銀行やホテル、一般市民の住宅地まで。戦争を知らない私達にとっては想像できないほどの銃弾痕です。穴が埋められているものもありますが、当時のそのままのものらしきものもあります。民家の住民を狙っての銃弾痕ということです。
それと、お墓もとても多いです。私達の宿のすぐ近くにも墓地が拡がっています。
ここで暮らす人達にとっては、これが日常の風景になっているので、そこで立ち止まってじっと見たり写真を撮ったりするのが後ろめたいというか申し訳ないというか恥ずかしい行為のような気さえしてきます。この街は想像以上に都会的だし、食べ物屋で働く気の良いおじさんおばさんだったり、カフェに集まるのはお洒落できれいな女の子達だったり、これまでの街と表面上は変わりありません。
しかし、このあたりに暮らす人達の多くが戦争で家族を亡くしたり被害に遭っているのだろうと思います。
住宅団地のようなところで、雪で遊んでいる子供達がいました。この子供達はすでに戦争のことを知らないかもしれません。でも家族の誰かが戦争の被害に遭っているかもしれません。
銃弾の痕と墓地の多さを実際に見てみると、出来事の背景を知りたいと思うようになります。長い歴史と複雑な問題を理解するのは難しそうですが調べてみます。百聞は一見にしかずです。そんなきっかけになっただけでも、サラエボを訪れてよかったです。

2007年11月15日木曜日

怪しいおじさんと快適な宿


サラエボのトルコ人街が今日の宿です。古い町並みが残っている地域です。暗い時間帯にしか見ていませんが、少し大分県の豆田町を思わせる街並みです。軒の低さや屋根の角度などどこか日本的です。しかも雪が積もっています。雪の積もった温泉街の風情があります。
クロアチアのドブロクニクを発ち、アドリア海沿岸のきれいな景色を眺めながらバスで走り、国境を越え約6時間。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに着きました。
サラエボに近づくにつれて建物の壁に残る銃弾の痕が見えるようになります。お墓も多いです。
学生の時に世界史の授業で聞いた’ヨーロッパの火薬庫’という言葉を思い出しました。このあたりには多くの民族が住んでいる為に対立・紛争が絶えず、しかもそれぞれのバックにある国々の利益もからみ、ここからいつ戦争に発展してもおかしくない、というたとえの言葉だったと記憶しています。
そんなことを思いながらバスから街を眺めていると、観光気分では降り立てない気分になります。
そして近くのイタリアもでしたが、東欧は日が暮れるのが早く、地形によっては夕方5時前に日が落ちてしまいます。夜が来るのがとても早い気がします。そして、サラエボに到着したのは夜10時です。もうすっかり夜中の気分です。暗いし雪も降ったりしているので、宿までタクシーで行きました。正規のタクシーでない、小遣い稼ぎの自称タクシー運転手に運賃をごまかされるところでした。しかし、宿のおじさんも私達の味方になってくれて「さあさあ」と宿の中へ招き入れてくれました。ところがこのおじさん。オランダ・アムステルダムで漂っていたあの葉っぱの匂いがぷんぷんとしてきます。舌がまわらないようですが、フランス語交じりで同じ事を何度も説明してくれます。足元もふらついているようなんですが、必要な時にはかなり機敏に動き回ってくれます。なんだか、不思議なところにたどり着いてしまいました。本当に不思議なことに、宿は古いけれどもとても清潔感があって快適なのです。おじさんが「明日やって来る」と言っていたマダムが相当なやり手なのでしょう。

2007年11月14日水曜日

国境越え。国境引き。


昨日の夜はフェリー泊だったので、今日はお昼頃までたっぷりと寝てしまいました。
コトルの湾に流れ込む水は本当にとてもきれいです。波のない深い青色の海がゆるゆると動きます。
そして、次の目的地はクロアチアのドブロクニクです。アドリア海の真珠といわれています。
モンテネグロからクロアチアへはバスでの移動です。今回の国境越えはバスです。
まずは、出国。国境近くになると、バスが止まり警察官(?)がバスに乗り込んでパスポートのチェックをして回ります。それから2,3km程は免税店が4,5件あるだけの不思議な区間です。その後は入国審査です。ここでは一旦パスポートを預け入国スタンプが押されてから手元に戻ってきます。私達はずっとバスに乗ったままで流れ作業のように進みます。
バスでは50代の日本人夫婦と乗り合わせました。バングラデシュに単身赴任をしていたりたくさんの国を旅行していたりと、面白い話を聞きながら移動することができました。話では、クロアチア人は誠実だとういうことでした。
そして、ドブロクニクのバスターミナルに着くと、昨日のバスで一緒だった日本人と再開してしまいました。なぜか東欧へ来てから日本人と縁があります。
それと、今回私達は’旅に出たくなる世界地図’という地図帳を持ってきています。そのなかでは、モンテネグロはまだ、セルビア・モンテネグロのままです。2006年に独立をしてからモンテネグロになりました。なので、その地図帳に国境を引きました。思った以上に小さく、四国よりもちょっと小さいくらいの国です。首都はポドゴリツァ。今日の学習内容です。

写真は、クロアチア入国の再に一旦停止した所です。

2007年11月13日火曜日

まずはモンテネグロ


アドリア海沿岸の街、モンテネグロ・バール。予想していたよりもとてもきれいで都会的な小さなリゾート地です。
そこからバスに乗り換え、コトルという街へ移動です。アドリア海沿岸をくねくねとバスが走ります。小さなリゾート地が点々と続くきれいな道のりです。結局、60kmの距離を2時間かけてようやく到着です。
今日の宿は、バスターミナル近くで声を掛けてきた女性の勧める宿に決めました。宿というのはその女性のお姉さんの家です。コソボ地区の紛争でご主人とお兄さんを亡くしたお姉さんが、空いている部屋でゲストハウスをしている。という、バスで一緒だったドイツ在住の日本人男性のドイツ語通訳でした。笑顔がチャーミングな姉妹から、そんな話がされていたとは思いもしませんでした。
お姉さんは、おそらく60代くらいかと思われます。日本で戦争の話といえば約60年以上前にさかのぼります。当時の話ができる人達というのはそれ以上の年齢で、戦争をしたという事実を私達が身近に感じる機会はとても少ないです。
しかしそれに比べると、彼女達のいう紛争はまだまだ最近の出来事のようです。
ここコトルは中世の街並みが残り、小さな入り江と水がきれいな世界遺産の街です。現在は日本人団体客も訪れるようです。
一見、そんな観光地のようなおだやかな街です。反面、そこに生活している人達にとって争いはまだまだ最近の事だというギャップがとても受け入れ難い話でした。

2007年11月12日月曜日

地理の勉強に


予定では約半分の旅が終わったことになります。
これからイタリアを出て、東欧へ入ります。イタリアの東側の街バーリからフェリーで10時間。モンテネグロのバールへ向かいます。
これからは、機能しない’日曜日’に悩まされた...。程度ではすまないアバウトさがありそうです。
日本を出発した時は、まさかこのあたりの地域へ行くとは思ってもいませんでした。いまだに、国名と位置関係をなかなか覚えきれません。
そしてイメージとしては、民族間の対立が多い地域。それと、私の好きな映画のいくつかもこのあたりでつくられた。というくらいです。当然ですが、私達が足を踏み入れるのは観光地化された安全な地域のみです。
観光地のみですが、このあたりの地域を訪れると認識が少しは変わりそうです。少なくとも、位置関係と国名と首都くらいはわかるようになるかと思います。

2007年11月11日日曜日

幸運の運転手


トゥルッリでの一日休暇を終え、今日は新たに再始動の予定でした。しかし、ヨーロッパの日曜日は私達を自由の身にはさせてくれません。
日曜日にはいろいろなお店やスーパーが閉まることにはだいぶん慣れてきましたが、まさか交通機関までもがホリデーになってしまうとは予測できませんでした。
次の宿泊を決めた目的地まで行く交通機関が、今日は日曜日ということで休みなのです。宿を予約したのにそこへ行く手段がありません。
宿台を無駄にしない為に、その方向へ向かってヒッチハイクを試みます。通り過ぎる運転手達は意外と私達の相手をしてくれて「もういっぱいで乗れないのさ~」「方向が違うよ」」「ダメダメ」などのジェスチャーをしてくれます。そう簡単にはいかないものだろうなと思っていると、拾う神有りで幸運の一台のワゴンが泊まってくれました。
目的地までとはいきませんが、途中の街まで乗せてくれるということです。
イタリア語会話帳で微妙な会話をしながら、その街へ着きました。その運転手はカフェへ品物を卸しに来たようで、そのカフェで美味しいカプチーノまでごちそうになってしまいました。
大感謝の気持ちを伝えて別れました。
しかしまだまだ私達の目的地ではありません。しかも5時前だというのに日が暮れ始めています。こうなるとヒッチハイクも通用しません。
最良の方法として決断した結果、この街で宿泊することに決めました。ホテルを値切って半額です。
そして、今日の宿泊地となったノーチという街は、幸運の運転手も言っていた通り今日はお祭り模様です。どうやら新しいワインのお祭りのようです。
街の中心地には出店が並んでいます。そこでワイングラスを購入するとそのグラスで好みの蔵のワインを5杯まで飲めるというシステムです。ワイングラス購入時に付属の袋を首からぶら下げた人達が古い街並みを歩き回っています。ワインがグラスに入っていない時はその袋にグラスを入れておきます。そして、出店でつまみを買い、食べて飲み...といった具合です。
私達もワイングラスを首からぶら下げて、お祭り気分になってしまいました。
身動きがとれずに、とうとう路頭に迷ってしまったのかと思っていたのが嘘のようです。この街に導いてくれた幸運の運転手に感謝です。

2007年11月10日土曜日

小さな一軒家に泊まる


旅行中の身でありながら、その中でまた旅行をした気分です。アルベロベッロへ来たからです。
イタリア、ブーツのかかとあたりにアルベロベッロという街があります。とんがり屋根の小さな白壁の家、トゥルッリが連なって建っています。世界文化遺産です。
このトゥルッリの街並みを写真で見たときは、メルヘン過ぎる...と思っていました。
しかし、実際に街中に立ってみると、これがなかなか楽しくなってきます。わかりやすい異空間です。しかもそのトゥルッリに泊まります。贅沢をしてしまいました。
気分はすっかり旅行者気分です。常に旅行中なのですが、私達の旅は楽しいことばかりというわけにもいきません。なので今回のような旅行中の旅行というのは、たとえば温泉宿に一泊するような感覚です。温泉宿でのんびりと過ごすようにただ単純に滞在を楽しみたいです。
外は冷たい風が吹いていてとても寒いのですが、この小さな家は快適です。なかなか暖まらないオイルヒーター3台とコンパクトで暖かみのあるトゥルッリのおかげです。
夜は、この地方の名物パスタ・オレキエッテでパスタを作ってもらいました。暖かい夜です。

2007年11月9日金曜日

思い起こせば


今日はナポリからバスで3時間ほど移動して、イタリアの東側、アドリア海に面した街バーリへ来ました。これから東欧、アジアへ向かう準備段階です。
それで。というほどでもありませんがヨーロッパの回顧です。
これまで訪れたヨーロッパ、そしてイタリアで特に感じたことですが、こちらの女の子達はけっこうぽっちゃりとしています。顔はとにかくシャープなのに、ローライズのジーンズにぷくりと乗っかるおなかはなかなか見事です。恥ずかしげなく惜しげなく、堂々とそのおなかの肌を見せています。胸は大きくボリュームのある体型なので特におかしくはありません。しかも足が長いのでバランスがとれているのが羨ましい限りです。
そしてその長い足にジーンズ。ロングブーツを履き、黒いコートという格好の人を良く見かけます。中高生から大人まで、シンプルで’大人っぽい’人達が圧倒的に多いです。日本で見かける’かわいい’カジュアルなファッションはあまり受け入れられないんでしょうか。色も黒メインで、あまり明るい色を使うのはメジャーではなさそうです。冬だからなのでしょうか...。
私の勝手な思い込みですが、北欧は日本の’かわいい’に近い感覚がある地域だと思っています。まったく詳しくありませんが、今までの経験や知識からそう感じているようです。
昨日泊まったホステルにいたスウェーデンの20代の男性も私のイメージする’北欧の人’でした。何がそう感じさせるのか決め手は特にないのですが。おそらく’清潔感’と’かわいらしさ’のような気がします。
ちなみに、これまでで一番素敵だった空港はトランジットで寄ったコペンハーゲンの空港です。乗り換えの為に降り立っただけなので少ししかいませんでしたが、洗練されたかわいさでした。そこにいる人達も気になるファッションで...。と北欧寄りな視点すぎたのかもしれません。

2007年11月8日木曜日

あの場所で。


イル・ポスティーノというとても好きな映画があります。
小さな素朴な島が舞台です。島へやって来た詩人に影響されて、ちょっとダメな郵便配達人が詩に目覚めていきます。セリフが少なく、詩で物語が進んだりします。風景と詩と音楽の相乗効果でとても素敵な映画です。
映画が撮影された島、プロチーダ島へ行くことができました。
漁師の声が飛び交ったり、映画でみた景色です。この海岸で(主人公が)詩を考えていたなぁなどと想いにふけると感動してしまいました。
あまり観光地というかんじはなく、島の漁師達が仕事をしている風景も近くで感じられます。とても静かで、日常的っぽくて、でも映画の撮影場所だったというのがとても素敵です。
この映画に出てきたバールは閉まっていたので、近くのリストランテでランチです。シーフードのフリットとシーフードのパスタ。漁師を眺めながらの漁師風パスタです。新鮮で美味しかったです。
この島はとてもコンパクトなので、貸自転車でさっそうと動き回るつもりでした。しかし、想像以上に体力がなく、さっそうとはいきませんでした。
ナポリからの日帰り旅行ですが、とても良い時間を過ごすことができました。




2007年11月7日水曜日

今日もまた


今日は、ピザをほおばる旦那を横目にパスタを食べることにしました。
さすがにピザは。と思うのですが、せっかくナポリにいるのだから食べておくべきかななどとまだ思ってしまいます。
それと、おなかが減りすぎて思わず入ってみたお店で、ライスコロッケとババを食べました。ライスコロッケは舌が痺れるまずさです。どこの国でもお店選びは重要です。
ナポリについて。昔の著名人が「ナポリを見て死ね」と言ったとか...。
ナポリは港町で、海に面して緩やかな斜面に建物が建っています。世界一周豪華客船らしきものも寄航しています。
「死ぬ前に...。」と、そこまでは思いませんが、夕日に照らされる赤い街はとてもきれいでした。

2007年11月6日火曜日

ピザ


ローマから列車で3時間弱。田舎の風景や建物が南国らしい景色に変わってきます。暖かいことを願って降り立ったナポリの街はローマとかわらず寒いです。日本と同じくらいかと思います。
そして、さっそくピザを食べに出掛けます。もちもちのナポリピザです。
手始めに。という事で1870年創業の老舗のピザ屋へ行きました。
これまでですでに、ピザ飽和状態に近かったのに、いざ食べてみると、日本では考えられない大きさのピザを一枚食べてしまいます。
ただ食べ終わると。胃の中で、これまで食べ過ぎたチーズが消化しきれずに固まっていそうな気がしてきます。ピザはもういいです。

2007年11月5日月曜日

満足です。


イタリア、特にローマでは、積極的にパスタを食べています。フェトチーネ、フジッリ、タリアテッレ、ニョッキ、ラザニア、マカロニ。はずすことなく、とても美味しいです。ここでは豊かな食生活を送っています。
また、街のいたるところに迫力のある彫刻作品があります。ローマの街造りに欠かせなかったと言われているらしい、17世紀に活躍したベルニーニという人の作品です。美術館に納められてもよさそうな作品が、街中に点在しています。
高級ブランド店が立ち並ぶ通りでは、ガラス越しに眺めてまわります。値段チェックをして、金額の大きさに驚いてまわります。
裏通りのほうへ入ると、セレクトショップなども並んでいます。疲れを忘れてまたまた歩きまわってしまいました。
様々な欲が満たされています。

2007年11月4日日曜日

遺跡


もともと古代ローマ遺跡などにはあまり興味はありませんでした。しかし、コロッセオを見てからちょっとかわりました。
コロッセオとは円形闘技場です。ただ、円形闘技場といわれてもピンときません。
5万人以上の観客を収容できるスタジアムです。ここで、人と人との闘いや人と猛獣との闘いが行われていたそうです。しかも、どちらかが死ぬまで闘いは終わらないという事です。5、6世紀頃まで、ここでローマ市民が熱狂していたそうです。すごい歴史があるものです。
ほかにも紀元前の建物が街中に残っていたりと、ローマはとても古い街です。
それと、のみの市で買い物をしました。ミレーのダウンジャケットを3ユーロで手に入れる事ができました。500円程です。
雑誌の海外旅行特集などで、’のみの市で掘り出し物を探す’などと書かれてあるのを見かけます。たまたま訪れた旅行者に掘り出し物なんてと思っていましたが、なんでもやってみるものです。